2006年FIFAワールドカップは
2006年6月9日から7月9日の間にかけて約1ヶ月間、
ドイツで開催された第18回目のFIFAワールドカップ。
ドイツでの開催は1974年の西ドイツ大会から32年ぶりで、
ヨーロッパでの開催は10度目。
出典:サッカーキング
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出典:サッカーキング
優勝 イタリア
2位 フランス
3位 ドイツ
日本はグループFリーグ4位で敗退
ゴールデン・ボール賞(MVP相当)
ジネディーヌ・ジダン
ゴールデン・シュー賞(得点王相当, 5点)
ミロスラフ・クローゼ
ヤシン賞(ベストGK)
ジャンルイジ・ブッフォン
ベスト・ヤング・プレイヤ賞
ルーカス・ポドルスキ
フェアプレイ賞
スペイン
フェアプレイ賞
ブラジル
エンターテイン賞
ポルトガル
優勝トロフィーは三代目となり、
地球をふたりの人間が向かい合ってささえるデザインで
2代目のトロフィーでは日本列島とユーラシア大陸が
陸続きになっていたのが正確に修正が加えられた。
高さ36.8センチ重さ6175キログラム。
2002年日韓大会までは、優勝国が次の大会まで管理していたが
今大会からは決勝戦後の表彰式が終了したあと
FIFA国際サッカー連盟によって回収、
保管されることになり、
優勝国にはレプリカが贈呈されることになった。
理事による投票数では1位のドイツ12票に対して、
2位の南アフリカ共和国は11票と
大接戦を繰り広げたのちドイツ開催 が決まった。
2006年FIFAワールドカップの開催国は、
2000年7月6日にスイスの都市チューリッヒで行われた、
FIFA国際サッカー連盟理事会における決選投票で決められた。
ドイツ、南アフリカ共和国、イングランド、モロッコの計4カ国が
最終選考に残り、第一回目の投票でモロッコが脱落2回目の投票で
イングランドがそれぞれ脱落し、
ドイツと南アフリカ共和国の最終決戦となった。
ところが最終決選投票を直前にして、
当時のOFCオセアニアサッカー連盟会長でもあった
チャールズデンプシー理事が突然会場を後にして、
ニュージーランドに帰国してしまった。
チャールズデンプシー理事はイングランド出身者であったため、
イングランドにずっと票を入れていたが
イングランドが脱落した場合は
南アフリカ共和国に票を入れるつもりだった。
ゼップブラッター会長も、
南アフリカ共和国でのワールドカップ開催を希望していただけに、
ドイツでの開催決定は予想を裏切る ものとなった。
チャールズデンプシーは棄権したことについては、
生命の危険を感じたと語っており、
同時に脅迫を受けていたことも語った。
棄権の理由についてはUEFAヨーロッパサッカー連盟からの
圧力がかかったなどいくつかの理由が存在するが、
明確な事は分かっていない。
なおチャールズデンプシー理事はその後、
FIFA国際サッカー連盟理事と
OFCオセアニアサッカー連盟会長の座を辞任した。
2015年10月にドイツの新聞シュピーゲルは、
ワールドカップの招致活動の過程において
ドイツのサッカー関係者が不正な資金を用いて
買収行為を行ったと報じた 。
ドイツサッカー連盟はこの報道を全否定している。
だがしかし、ドイツサッカー連盟は
2005年にFIFA国際サッカー連盟に対して
670万ユーロ(約9億円)を送っており、
この送金の経緯については一切の説明をしていない。
またさらに、ドイツサッカー連盟の前会長テオッヴァンツィガーは
招致活動での賄賂行為はたしかにあったとの証言を残している。
2015年の11月3日にこの670万ユーロ約9億円の送金に関して、
脱税の疑いがあるとしてドイツの警察は
ドイツサッカー連盟の本部の家宅捜索を行った。
またこの疑惑について、
ドイツサッカー連盟のウォルフガングニールスバッハ会長が辞任 した。
ニールスバッハ会長は政治的な責任をとって
やめるべき時がきたとしており、
不正行為については全否定している。
FIFAワールドカップ2006年ドイツ大会は
強豪国が次々と敗れて新興国が上位に進出し、
新時代の到来と言われた2002年日韓大会から打って変わり、
混乱がほとんど起こらない、順当な上位の顔ぶれとなった。
FIFAワールドカップ2006年ドイツ大会
グループリーグでは、
組み合わせに恵まれなかったものの
強豪国と互角に戦ったコートジボワール代表チームや
出場全チーム中最弱と万人に目されながらも
イングランド代表チームやスウェーデン代表チームを苦しめた
トリニダード・トバゴ代表チームなどの
好チームも随所に見受けられたものの、
概ね前評判が高かったチームが勝ち進み
下馬評通りに大会が進行した。
2年前のUEFAヨーロッパ選手権2004で
素晴らしいサッカーを披露し、
上位進出のダークホースとの呼び声が高かったチェコ代表チームが
姿を消したのが数少ないサプライズであった。
また、ガーナ代表チーム、メキシコ代表チーム、
オーストラリア代表チームを除く13チームがヨーロッパ、
南米勢によりしめられた決勝トーナメント1回戦でも、
強豪同士の潰し合いでスペイン代表チームや
オランダ代表チームが姿を消した以外は
強豪国が順当な勝ち上がりを見せた。
1998年のフランス大会以降2大会ぶりに
ヨーロッパ、南米勢のみでしめられた
準々決勝では下馬評で圧倒的な優勝候補と目されていた
ブラジル代表チームグループリーグで
最も華麗なチームと呼ばれたアルゼンチン代表チームの南米の2強が
揃っていずれも姿を消し、
ベスト4は1982年スペイン大会以来、
6大会ぶりにヨーロッパのチームが独占 した。
誤審問題で大揺れした2002年FIFAワールドカップ日韓大会の反省から
この2006年ドイツ大会は審判に対して様々な改革が行われた。
従来はランダムでバラバラの国から選んでいた主審、
副審を意思の疎通がしやすいようできるだけ
同国出身の組み合わせに統一し、
更に組み合わせを試合ごとに
シャッフルを行わずにチームを組ませ、
試合中にはインカムで連絡を交わすことで、
ジャッジの向上を図った。
更に、遅延行為などに対する判定はより厳しくすることが決まった。
この改革は成果を上げたがジャッジが厳格化されたことから、
結果的には前回大会を上回る枚数のカードの乱発を生んだ
(1大会の退場者数28人は史上最多の数字である)
審判がカードの記録のミスを犯し、
同一選手に3枚のイエローカードが提示 された
1次リーグF組のクロアチア対オーストラリア戦、
ワールドカップ史上最多16枚のイエローカード、
4枚のレッドカードが提示された
決勝トーナメント1回戦のポルトガル対オランダ戦など、
いくつかの試合においては
前回大会同様またもその判定が物議を醸すこととなった。
出典:サッカーキング
出典:フットボールチャンネル
監督は ジーコ
フィリップ・トルシエの後任として、
世界のスーパースターとして名高い
ジーコが日本代表監督に就任した。
鹿島アントラーズの土台を作った
元ブラジル代表のジーコが指揮を執り、
2002年日韓大会の主力だった
宮本恒靖や中田英寿、稲本潤一や小野伸二らに加え、
2002年出場が叶わなかった中村俊輔と高原直泰も軸を担った。
世界各地の地区予選に参加した国々の中で
ワールドカップ一番乗りを決めた。
最終予選出場権獲得直後の
2005年コンフェデレーションズカップ(ドイツ)では
欧州王者ギリシャを1-0で破り、
ブラジルを相手に2-2のドローに持ち込んでいる。
この成績からもわかるように
2006年ドイツワールドカップの日本代表は
「史上最強」の呼び声も高かった。
しかし本線では、
役者は揃っていたが結果はだせずに予選リーグ敗退となった。
ニューヨークポスト紙からは
「ワースト4位のチーム」に選ばれてしまった。
メンバー発表時に
ジーコ監督が最後に『巻』(巻誠一郎)といったとき
「おーーー と」会場がざわめいた のは
いまでも覚えています。
サプライズ選出でした。
第一次合宿は5月中旬から下旬にかけて福島・Jヴィレッジで行われた。
ブラジル人のジーコは練習完全公開のスタンスを取っていので、
現地にはメディアとファンが殺到し、
1日2万人が押し寄せる日もあった。
そのため、練習場はまるでアイドルのコンサートと言われた。
大会後、川淵三郎キャプテンがロイター通信のインタビューにおいて
「中田英寿は他の選手と交流を
持つことができなくなっていた」と語っている
出典:ドイツW杯 楽天ブログ
現役最後のゲームとなったブラジル戦の試合後
ピッチに仰向けに倒れたままの中田を労ったのは
キャプテン宮本とチームスタッフ
ブラジル代表のアドリアーノ(パルマ時代の同僚) だけだった
アドリアーノが駆け寄ったとき
ヒデの海外での評価の凄さが
わかったシーンでした。
2006 FIFAワールドカップ日本代表
出典元: 引用 Wikipedia