2002年FIFAワールドカップ日韓W杯が共同開催となった原因や理由
2002年FIFAワールドカップ日韓W杯は
2002年5月31日から6月30日にかけて
約一ヶ月にわたり開催された
出典:【2002年 日韓W杯】アジアの地で“W杯フィーバー”が巻き起こる…
日本は初のベスト16 サッカーキング
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2002年FIFAワールドカップ 表彰
優勝:ブラジル
準優勝:ドイツ
3位:トルコ
FIFAフェアプレー賞:ベルギー
エンターテイニングチーム賞:韓国
ゴールデンボール(MVP):オリバー・カーン(ドイツ)
シルバーボール:ロナウド(ブラジル)
ブロンズボール:ホン・ミョンボ(韓国)
ゴールデンシューズ(得点王):ロナウド(8得点/ブラジル)
ヤシン賞(最優秀GK):オリバー・カーン(ドイツ)
17回目で21世紀最初のFIFAワールドカップであると同時に
世界最大のスポーツイベントであります。
FIFAワールドカップ初のアジアアフリカ大陸による開催の案
これまで、FIFAワールドカップは
ヨーロッパ州と南北アメリカ大陸間で互いに行われてきたが、
1986年に国際サッカー連盟(FIFA)の
ジョアンアヴェランジェ会長(当時)が
初のアジアアフリカ大陸による
開催の案を打ち出しました。
FIFAワールドカップ2002年大会の招致に日本が名乗り
その後ジョアンアヴェランジェ会長から
2002年FIFAワールドカップの開催の打診を受けた
日本サッカー協会(JFA)が各国に先駆け
FIFAワールドカップ2002年大会の招致に名乗りを上げ、
低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で
1988年にFIFAワールドカップ2002年大会の日本開催を構想、
1989年11月にFIFAにワールドカップ立候補の意思表示をし、
招致活動を開始しました。
1991年6月に2002年ワールドカップ招致委員会が発足、
翌年1992年3月24日にはワールドカップ国会議員招致委員会が誕生し
ワールドカップ招致は日本国内の国家的事業となりました。
日本はFIFAワールドカップをより平和の祭典として
メッセージ性あるイベントにしようと提案し、
トヨタカップ(現クラブワールドカップ)などの
開催実績と平和で安全、豊かな経済、
政治的安定、自由と民主主義、
世界の先進国である点などを示し
日本国内で開催する意義を謳いました。
それに加え、バーチャルスタジアムの
構想(使用していないスタジアムに
巨大なスクリーンを配置し3次元の映像を投影。
あたかもスタジアムの中の自分の目の前で
選手がサッカーをプレーしているように
観客に見せる日本が誇る最新の映像技術を駆使した
仮想のスタジアム観戦システム)を
FIFA国際サッカー連盟に提案し、
史上最大規模の合計400万人がスタジアムで
観戦することが可能な大会にすることを謳いました。
(バーチャルスタジアムの構想はその後、
メガビジョンと呼ばれる大画面投影技術に姿を変えた。
しかし、放映権の問題が発生したため、
実際にメガビジョンが使われたのは準決勝の1試合だけであった。)
FIFAワールドカップ2002年大会の招致に韓国も名乗り
その一方で、FIFAが想定する
アジア初のワールドカップ開催 に
日本が立候補すると知った韓国は
アジア初の名誉をかけて日本に続く形で
1993年11月に立候補を表明1994年の初めに
2002年FIFAワールドカップ招致委員会を組織しました。
日本よりも招致活動に出遅れてしまうこととなった
韓国は同1994年にFIFA副会長に選出された
チョン.モンジュン大韓民国サッカー協会会長を先頭にして、
現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての
大規模な招致活動を開始しました。
南北朝鮮共同開催の案を持ち出すなどの
行動を起こし日本の招致活動に激しく対抗しました。
そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、
日本と韓国の2つの国のみが正式に立候補を表明 しました。
日韓の一騎打ちと時期会長職の対立
日本と大韓民国以外に立候補した国はなく、
招致活動は日韓の一騎打ち となりました。
1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ2002年大会の
開催提案書をFIFA国際サッカー連盟に提出しました。
これを受けて同年11月にFIFA視察団が日韓両国を訪問し、
スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。
視察団は「日本は施設も、歓迎も技術もすばらしい 」と
日本を高く評価しました
開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、
副会長を含む理事合計21人が投票を
行うことによって決定される予定でした。
だがしかし、時期を同じくして次期FIFA会長選挙を控え、
一貫して日本単独での開催を推進していた
FIFAのジョアンアヴェランジェ会長の会長派と
レナートヨハンソンヨーロッパサッカー協会会長を
次期国際サッカー連盟会長にしたいヨーロッパの
ヨーロッパサッカー協会理事派の勢力が時期会長職を巡って
対立し始めてしまいました。
そしてジョアンアヴェランジェ会長の会長続投を
阻止しようと反会長派のヨーロッパ理事たちは
日本と大韓民国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、
南米の会長派の理事たちはあくまでも日本による単独での開催を
支持したためにアフリカの理事らの動向が
投票を左右することとなりました。
2002年FIFAワールドカップ日本と韓国の共同開催の原因
ただこうした状況の中で
次第に日韓共催の案が現実味 を帯びていく形となります。
直前になってヨーロッパ理事らが、
ヨーロッパの各国のサッカーリーグに選手を
受け入れてもらう立場にあるアフリカの理事の得票を
おさえ多数派(FIFA全理事21名中最多の11名)となりました。
その関係で、開催国を決定する投票日の前日の
定例理事会の前に行われたパーティーの会場で
アフリカの理事らとの歓談から敗北することを悟った
ジョアンアヴェランジェ会長は、
会長としての権威を保つため、
それまで自分が強硬に反対していた
日本と韓国の共同開催 (当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を
ジョアンアヴェランジェ会長自ら
提案を行うことを決断しました。
日本が2002年FIFAワールドカップの共同開催案の受け入れを決断
1996年5月30日の午後、
ジョアンアヴェランジェ会長は
国際サッカー連盟事務局長の
ゼップブラッターを通して、
ヴィダーホテルで投票を待っている
日本招致委員会に非公式に
日本と大韓民国の共同開催の案の打診の電話をかけさせました。
電話を受けたのは語学が堪能な
岡野日本招致委員会実行委員長でした。
なお、ゼップブラッターの口ぶりは
切羽詰まった様子であり
打診というよりは要請であったといいます。
岡野日本招致委員会実行委員長は
電話のみで伝えるだけでは正確性にかけるとして
国際サッカー連盟の公式文書を求めました。
午後3時を過ぎたころゼップブラッターの署名が入った
国際サッカー連盟公式文書がFAXで届きました。
その文書には、
既に大韓民国は1996年5月15日付の文書で
日本と大韓民国の共同開催の受け入れをFIFAに回答した。
日本側の立場をたずねたいと書かれていました。
2時間ほどの議論でも結論は出せなかったが、
もしも仮に日本側が共同開催を受け入れなかった場合は、
韓国の単独開催になるのは必至でした。
ゼップブラッターへの返答期限が迫るなか
宮澤喜一招致議連会長が日韓共催は政治にとって
悪くない決断との発言をきっかけに
長沼日本サッカー協会会長はやむを得ず
共同開催案の受け入れを決断しました。
2002年日韓FIFAワールドカップでは
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2002年日韓FIFAワールドカップといえば
やはり
鈴木隆行選手のベルギー戦つま先のゴール
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稲本潤一本選手の金髪ヘアが印象的でした
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